梨かなた

ちょっと緊張してます。

管理職 ムキムキ なぜ?

キン肉マン

入社してからの疑問なのだが、管理職ってどうしてムキムキなんだろう。ムキムキにならないと管理職になれないのだろうか。それとも、管理職になったらムキムキになるのだろうか。あんなに毎日忙しそうなのに、彼らはいつどこで体を鍛えているのだろう。不思議、というか一周回って怖い。あんなムキムキなのに、大人しくスーツに身を包んでいるという事象がホラーすぎる。

 

そもそもあの筋肉って何に使われるのだろう。

週末にちょこっと接待ゴルフをするため? 

ライバル社との草野球でホームランを打つため? 

それとも、受付のお姉さんに「わ〜。今日も逞しいわ!」って

心の中で思ってもらうため?

 

 

延長コードを持つにしてはタンパク質過多だし、仕事の場面だけ切り取れば私の方が重いものを持っている。目的がいまいち見えてこないムキムキは、ムキムキ育って日を追うごとに厚みを増す一方。その陰で私の疑問もすくすくと育っていく。

 

 

男性、女性問わず体の美しさや健康の話は人気だと思うのだが、男の人はなんというか「筋肉」という界隈の中で群れやすい気がする。どこのジムが安いとか、今どこの部位を鍛えているとか、引き出しに何種類プロテインが入っているかとか。二、三人集まればそんな会話をしている。親密度が増すと、廊下や社食ですれ違った時、互いに筋肉を軽く触り合い「おっ!鍛えてるな!」と声を掛け合う。それを見て変な文化だなと思う。そんなに筋肉が好きならジムで話せよ。てか、会社の中にあるだろ。そこで交流しろよ。そう、心の中で悪態をついてしまう。

 

 

でも、こうして私が卑屈になってしまうのは、多分、体を動かすことがそんなに好きじゃないから。汗は軽く流れてなんかくれないし、吐きそうになりながら走ってもタイムは10秒を切ることはない。そもそも、運動に適切な服が自分のクローゼットにはない。だから、生活の中に“運動”がある人が眩しい。私が意を決して、心を準備している間に、彼らは難なくスタートを切って走っていく。そして、一周して私の元に戻ってくる。その頃にはもう筋肉がムキムキついていて、声には自信とハリがみなぎっている。

 

 

筋肉は一日頑張ってもつかない。毎日コツコツ、自分の体と心に向き合う時間がないと育たない。小さなことを少しずつ、着実にこなしていく。その姿勢を崩さずに生活の中に取り入れる。負荷を習慣として受け入れる力が、仕事にも影響しているのだろうなと思う。なかなか見ることができない人の陰の努力を、ある種、筋肉は可視化しているのかもしれない。

 

 

最近そんなことを考えたんだと同期に言ったら、こう返された。

「じゃあ梨さんは筋肉がある男が好きってこと? 」

違うんだよな。そーいうじゃないんだよ。そういう話をしてるんじゃない、こっちは。

 

 

 

水筒って洗うの面倒くさい

水筒の蓋

水筒ってどうしてあんなに洗うのが面倒くさいんだろう。

 

時間がかかる訳でもないし、汚れだってすぐに取れるし、色だって可愛いのに何であんなに洗う気力を削ぎ落としにくるのだろう。もう、本当に不思議でならない。

 

水筒問題に直面するのは朝が多い。それもすっごく余裕がない時の朝。

 

あと10分で家を出なきゃいけないのに、まだブラウスにアイロンをかけられていないとか、夜ごはん分のお米をとげていないとか、洗濯機の中に靴下が片っぽだけ置いてきぼりになっているとか・・・。とにかくそういう「今、ここで!!」みたいなイレギュラーが続く時、ラスボスとして登場する。

 

いつもの定位置に手を伸ばし水筒を探る。あれ、昨日ってこんな奥に置いたっけ?と思いながら少し背伸びをして棚の中を覗き込む。すると目の前には何もない空間があって、嫌な予感がゾゾゾっと頭の後ろを撫でる。そして脳内会議が始まるのだ。

 

「確か、昨日は同期と飲みに行って。それから手洗いうがいをして、メイクも落として、歯磨きをして、そこから・・・何したっけ。あれ、記憶がないぞ。ああ、そっか寝落ちしたんだ。そうそう、だから朝から焦って風呂に入ったんだよね。うん。ということは、水筒は、まだ鞄の中だ・・・。洗えてなーい!!」

 

急いでバッグの中を確認すると、そこには横たわっただらしない水筒がいる。

「あっ、今気づいた? 俺、まだ洗ってないから〜」みたいなテンションでこちらを見つめてくる。憎らしいので、ボタンを押していじめてみると、ベッタリと口紅がついた白い飲み口が現れてまた疲れが溜まる。もういいや。洗うの面倒くさい。今日はペットボトルさんに頼ろう。そう思って家を出る。こうして私のラスボスに勝てない日々が続いてゆく。

 

お金を払うのも、水筒を洗うのも全部自分だから別に何の罪悪感も感じなくていい。だけど、ペットボトルを買った日は何だか少し寂しい。水筒で飲む時に感じる「豊かさ」みたいなのがなくて物足りない。以前この感覚をある人に話したことがあるのだが「いまいちよく分からない」という顔をされた。水筒によってもたらされるあの幸福感をなんと表現したらいいのだろう。節約できているとか、冷たい水が飲めて嬉しいとかそういう“分かりやすい理由”とは別のところで何かあたたかいものが育っている感じがする。

 

これはまだ、仮説の段階だから何とも言えないのだけど。あの「豊かさ」は多分、水筒を洗うことがこの上なく面倒くさいと知っているから生まれてくるのだと思う。専用のスポンジを買ったり、なんか強そうな洗剤を買ったり、ハンカチと一緒に鞄から取り出す習慣をつけるようにしたり。前向きに取り組めるように色々足掻いてみるけど、続かない。そういう愚かで怠惰な自分がいると分かっているから、水筒で水を飲んだとき私の心は豊かになる。

 

「あぁ、ちゃんと生きれてるな」

「頑張ってるじゃん、私」

 

と褒めたくなるのだ。自分一人のために時間と労力をかけるのって割と難しい。大人になると尚更だ。でも、いま私はそれができている。そんな自負が「豊かさ」の正体なのだろう。でも・・・やっぱり・・水筒って洗うの面倒くさい。

 

アワナイヒト

人間関係ってさ

どうしても合わない人っている。こっちもあっちも別に「こいつ嫌いだ」と思って接しているわけではないのに、なんか伝わらない。むしろ、他の人より丁寧に説明しているのに上手くいかない。「腹が立つ」とか「関わりたくない」とかそういう感情が生まれるくらい何か決定的にイヤなことがある・・・わけじゃないから余計に難しい。

「なぜ、なぜなんだ」という疑問が毎日わたしの中で大きく育っていく。

 

最近、その人と話しているとある光景が頭の中に浮かぶ。

右手と左手の指先を全部合わせて、指の腹と腹が完全に離れないようにしながら伸ばしたり縮めたりする。細かく一定のリズムでそれを繰り返していると、そのうち右手の左手の間に透明な“ナニか”が挟まっている気がしてくる。

 

伸ばして、縮めて、伸ばして、縮めて・・・。繰り返せば繰り返すほど透明なそいつは硬く、強くなってく。この感覚何かに似ているぞ。なんだ、なんだ。と思いながら頭の中をぐるぐるしていると、書きかけのノートの間から透明な下敷きが出てくる。「コレだー!!」と思って取り出し、伸ばしたり、縮めりしている部分に透明な下敷きを挟むイメージをする。そのまま指を屈伸運動させていると、むしろ透明な下敷きが挟まっていない方がおかしい気がしてきて、「いま、どういう状況なんだ?」と思ってしまう。

 

はじめは自分の意志で動かしていた両手が、いつの間にか知らない誰かの手になり変わっていて、自分の気持ちが置いてきぼりのまま動いている。

どうしよう。いつやめようか。どうやってやめようか。と考えていると、

「何してるの?」と人に肩を叩かれふと我にかえる。手元に目をやると両手は離れていて、透明な下敷きなんてないのだ。

 

その人と私の間にはこの透明な下敷きが挟まっているのではないかと最近思う。

こっちもあっちも言葉とか、目線とか、態度とかそういうのを全部合わせて一生懸命動いているのだけど、間にある下敷きのせいで上手く声が届かない。第三者から見れば何もないように見えるけれど、伸ばしたり、縮めたりしている私たちは違和感を感じている。明らかに人のあたたかさを欠いた硬い何かがそこにある。

 

多分、これから先もその人とは合わないままだろう。それは相手も然り。そこはもう諦めている。でも、たまに自分が悪いんじゃないかという考えが頭をよぎる。もっと気遣いができたら、もっと言葉を選べたら、もっと、もっと自分がこうだったら・・・。あの人とも上手くいんじゃないかと思ってしまう私がいて、そしてそれができない自分がいることに落ち込んでしまう。

 

そんなとき、私はわたしに伝えたい。

「大丈夫。その人と合わないの普通だよ。」

「だって、透明な下敷きが挟まっちゃってるからさ」

「仕方ないよ。悪くないよ。」

 

そう思えたら、ちょっと復活してコーヒーとか淹れちゃえる。そんな気がする。

 

 

 

 

 

猫派の君と、犬派のボク

 

「私は猫派だから!」と言い張る女がこの世に現れたのはいつなんだろう。

彼女たちは「猫派」であることに対して絶対的なこだわりとプライドをもっている気がする。単に猫が好きな人もいれば「猫派の女」という言葉の響きに酔っている人もいる。それが高じて猫という生き物の性格と自分を重ね合わせ、「私はそんな簡単に手に入らないわよっ」という意味深なメッセージをもたせてくる人もいる。もっと極端なことを言うと、犬派か猫派か聞いてくる人は大体猫派な気がする。

 

別にいいじゃん。どっちも可愛いじゃん。と思う私は彼女たちの目にはやや軽薄に映るようで攻撃を喰らいがちだ。パターンは大体二つ。その場で犬を踏み台にして猫の素晴らしさを力説されるか、後日その人の愛猫がただ昼寝しているだけの写真が送られてくるかだ。たまにコンボでくる人もいる。あれは困る、本当に困る。隣の部署の上司が見せてくる子どもの写真ぐらい困る。だってどれだけ可愛くても猫は猫だもん。動物だもん。それ以上でもそれ以下でもない。

 

そもそも、猫と犬をパックリ二つに分けた人が悪いんだ。生き物という括りで見ればいいじゃん。「ペット」とか「かわいい」とか他にもいろいろ揉めない分け方ってあるだろ。あかぎれとかひび割れ用のクリーム、そうアトリックスみたいなやつが必要なんだ!かねてからそう思っていたのだが、先日その“アトリックス”を見つけてしまった。

 

夜、散歩していると二匹のトイプードルが向こう側から歩いてきた。右、左、右、左と体を揺らしながら、懸命にアスファルトを踏みしめている。小さい体はふわふわの茶色い綿で包まれており、目をクリクリさせながらこちらに向かってくる。でも、どこか様子がおかしい。過剰な愛を受けている犬が着せられがちな“服”が明らかに変なのだ。だってその二匹の犬は、犬なのにトラ柄の服を身に纏っているのだ。この子たちの飼い主は一体どんな奴なんだと思い、すぐさま視線を後方にやる。春の夜、生あたたかい風が吹く暗闇からすっと浮かび上がったその人は、白いTシャツを着て、ノーブランドの半パンをはき、クロックスをずるように歩いていた。驚くほど普通。ただの「犬を散歩に連れている中年男性」だった。

 

どういう過程を経てそうなったのかは分からない。だが事実として、私は犬派と猫派がほんの少しだけ歩み寄った姿を見てしまった。もちろん猫とネコ科のトラを一緒くたにできないことは分かっている。でも、やっぱり感動してしまったのだ。犬用の服を作る時にネコ科の柄を指定した人がいて、それを型におこした人がいて、それを縫い合わせた人がいる。商品として並べた人、それを購入した人、犬に着せた人、全員が揃わなければトラ柄の服を着たトイプードルはこの世に存在しないのだ。そう思うとたまらなく愛おしくなった。

 

犬派か猫派かなんて質問はやっぱり愚問だと思う。人間臭すぎる。だって、あの夜みた犬たちはこの上なく幸せそうな顔をしていた。自分がいま、人からどう見られているのか関係ない。ただ春の夜の、ちょっと浮かれた空気の中に舞う桜を追いかけることに全力で、それが最大の喜びのようだった。その姿を見て「私は猫派だから別に何とも思わない」なんて言うやつはいないだろう。だって、人間は「かわいい」の前では皆平伏すようにできているのだから。

 

 

 

 

チケット代は・・・

お花見をしました

先日、大阪城公園へ散歩に出かけた。

父の車で死ぬほど聞いたバンドがライブをしていて、思わず足を止めて聞き入ってしまう。おじさんっぽい少しくぐもった声が耳に心地よく、そのまま30分ほど立ち聞きをした。

 

多分、ダメ。こんなことしちゃダメ。そう思いつつも林の間から漏れる光と音、観客の様子を伺う。こういうの知ってるな、なんて言ったっけ・・・。と頭の中でぐるぐる考えた。

 

「かいまみ」

 

そう、「かいまみ」だ!伊勢物語の「かいまみ」だ!

ヒットしたワードが、今の状況にピッタリだったものだからニヤついてしまう。

 

在原業平、こういう気持ちだったのか。これはなかなか焦ったい。歌とか送っちゃうわな。と、一人で共感した。

 

帰り道、左足の膝裏が異様に痒くてスウェットのズボンの方をたくし上げた。

うっすらと皮膚が盛り上がっていて、赤い。

やられた。蚊に刺された。

チケット代、私の血か〜と思うことにした。

引越しをする、三月。


 高校を卒業したら通知表をもらう機会なんて、自分の人生にはもうやってこないのだろうなぁと思っていた。GPAとか社内評価とかそれに似たようなものがあるのは知っていたけれど、ある組織で、ある期間だけそこにいた自分が言葉になって評価されることって、もう多分ないんだろうな。と、そう決めつけて生きてきたからぐさっとしてやられた。大人になってからもあった。引越しをする三月は、今まで自分が周りからどう思われていたのか目にみえる季節だった。

 

 大阪に行くことが決定した時、正直何も怖くなかった。知っている土地だし、友達もいるし、ご飯も美味ししいし、まあなんとかやっていけるかという妙に落ち着いた気持ちで心は満ちていて、人に言われるほど「寂しくなるね」とは思っていなかった。それよりも今自分の部屋にある荷物がこんな20枚ポッキリの段ボール箱に収まるのだろうか、とか営業時間内に市役所に行って必要書類諸々集めないとな、とか。粗大ごみを一つ捨てるにこんなに手続きを踏まなきゃいけないんだ、とか。やらなきゃいけないことが次から次へと出てきちゃうから、煙のようにふわっと感情がのぼってもそれに構ってやれるほど余裕がなかった。

 

 そんな中で迎えたバイト最終日、 “ボス”が店に来て手紙をくれた。内容が気になって帰りの電車の中で開く。私の想像した感触より厚い、便箋が二枚入っていた。万年筆で書かれた言葉には「あっ、ミスった」みたいな迷いがなく、お行儀よく一列に並んで私を見てくる。こんなことが書いてあった。

 

「傷付いたり、悩んだりした事もあっただろうけど、

 人に寄り添ってきた分、今度は周りの人達がたくさん助けてくれると思います。」

 

これを見た時、私は泣いてしまった。ああそっか、やっぱり寂しいんだ。私。そうだよな。当たり前だよ。やっと居心地が良くなってきたのにまた立ち上がって、できるだけ後ろを見ないで走らなきゃいけないんだもん。その道を選ぶ選択をしたのは私だけど、だからといって「はーい。いっきまーす。」みたいな感じで振りほどけないよ。でも、そう素直に思えたきっかけくれたのは他人で、その人はずっと私の頑張りを見てくれていた人で、私も離れがたいと想った人だった。真面目に頑張ってきてよかった。自分が三月にこんな言葉をもらえる人間になれていたことがたまらなく嬉しかった。親にも祖父母に見せない私の“通知表”。そこに書かれている言葉を人生のお守りにしてこれからも生きていくのだろうな、そういう予感がした。