一杯、やろうよ。

クラゲくんは私のことを「かっこいいな」って言う。
そう言って、私に一線を引いてくる。
レジ袋くんは私に「向いてるよ」って言う。
そう言って、私に一線を引いてくる。
うるせーなって思う。うるせー。うるせー。うるせーって。
じゃあお前らもこいよと思う。
なに評価する側に回って安心しきってんの?
それで自分は傷つかないって思ってんの?
勝手に分かった気になってんなよ。
私はただ書きたいだけで、それがきちんと実現できるように、
今の場所で手段を勉強しているだけなのに、
なんでそんな頑張れるんだよみたいな顔で私を見てくるの。
悔しかったら、お前もやってみろよ。
こっちが間違ってるみたいなこと言うなよ。
でも、結局それを叩きつけるモノは私にはなくて、
ただ書き続けることしかできないので、
静かに物語にしようと思います。
トイレットペーパーの芯

誰だって一度くらい「自分って天才なんじゃないか」と思ったことがあると思う。一日で仕上げた交通安全のポスターが賞を取った。声が良いと言われて放送部に誘われた。誰にも懐かない近所の犬が、自分にだけ尻尾を振ってきた。
勘違いするタイミングは年に5回くらいあって、
その度に「もしかして!!」と心躍らせる。
せーので教室を見たときに、一人だけ飛び出ているのは嫌だけど、隣に座っているあの子より何かがちょっと違う、変わった人間でいたいなと思う。
その「変わった」からはポジティブな音がして、なんの努力をしなくても、なんか人よりも上手で、若くて、褒められる。
そういうのをまとめて「才能」と呼び、それを持っている人が「天才」なのだと思っていた。私はもう、かなり小さい頃からその「才能」に憧れ、なんでもいいから「天才」になりたかった。
そっち側じゃないと悟ったのは、小学6年生の時だった。
その頃の私は、とにかく人が知らないものを知っているのが一番すごくて、偉いと思っていたので、みんなが面倒くさがって解かない算数の教科書にある〈発展〉と書かれた問題をとにかく解いた。
「頭が良い」という才能は、育てるのも、見せびらかすのも簡単で大好きだったし、そう見られたくて必死だった。ある日、塾でテキストを解いているとこんな問題が出てきた。
花子さん:生活の中にはいろんな図形で溢れているね。
太郎くん:そうだね。例えばティッシュケース、正面から見ると長方形だね。
花子さん:何センチかな。測ってみると面白いかも。
先 生:太郎くん、花子さん。今度は上から見てみようか。
太郎くん:上からみると、直方体ですね。
花子さん:今度は縦と横だけじゃなくて、高さも出てくるんですね。
先 生:そうですね。二人ともよく気が付きました。
こんな会話しないだろ。気持ちわる、と思いながら次のページをめくろうとしたとき、隅に書かれていた問題に釘付けになった。
先 生:トイレットペーパーの芯を広げるとどんな図形になるでしょうか?
何それ。それが一番はじめに出てきた感想で、次に全然想像がつかないことにワクワクした。無機質な灰色をした階段を降り、一階にある女子トイレに駆け込んだ。
銀色のホルダーには、まだちゃんと残っているトイレットペーパーがあって、それを夢中で引っ張った。悪いことしてるな。塾で何してんだろ。先生にバレないように後で全部流そう。トイレットペーパーを巻き取りながら、冷静に証拠隠滅を考えていた。
カランと軽い音がして、芯だけになったことが分かると、急いでそれを掴んだ。個室で、鍵もかけてあるから、別に誰も入ってこないし、横取りされることもない。なのに、私はなんか、すごく必死で、一番初めに芯を広げた形の目撃者になりたくてたまらなかった。
円柱形の筒の側面に沿って描かれた螺旋状の線をたどりながら、手でトイレットペーパーの芯を広げる。ビリビリと紙を破る音が“答え”までのカウントダウンだった。
出てきたのは平行四辺形だった。
少し曇った白色をしたそれは、洗濯バサミで伸ばされたハンカチみたいだったけど、確かに平行四辺形だった。向かい合う二組の辺はそれぞれ平行だったし、対角は測っていないけど、多分同じだった。
とにかく、ひとめ見ただけで「あー、平行四辺形だ」と思うくらいトイレットペーパーの芯は完璧に平行四辺形で、この日ほど“花子さん”に共感した日はない。本当に生活の中にはいろんな図形で溢れているねって思った。
こんな身近に、こんなに知的な発見があるなんて!早く誰かに教えて「すごい!すごい!」って褒めてもらわなくっちゃ。
そう思った私は、家に帰ってからすぐに妹に自慢した。今、この瞬間。私がもっているものより面白いものなんて、この家にはない。自信があった。声にその自尊心が色を出さないように気をつけながら妹に聞いた。
「トイレットペーパーの芯って、分解したら何の形になるか知ってる?」
彼女はまっすぐこちらを見て言った。
「うん。ヒシガタ」
即答だった。
聞き間違いじゃないかと思った私は「えっ・・・」と聞き返す。
「えーと。ヘイコウシヘンケイ」
当時、妹は小1だった。
自尊心も優越感も、お姉ちゃんだぞというマウントも全部引き剥がされて、真っ白に
なった私の口から何の穢れもない声が出る。
「どうして、知ってるの?」
妹は、なんてことないように答える。
「えー、だって、広げたらどんなんかなって気になったから・・・」
「ちょうど、なくなったし、開けよっかなーって」
あー、こういう感じなんだと思った。こんな感じで本物って現れるんだなって。
勝手に、大人で、頭が良くって、都会に住んでいる人を想像していたけど、全然そんなのじゃなかった。
同じ家で育って、同じものを食べて、同じトイレを使っていたのに、私は一度も、トイレットペーパーの芯を広げた形なんて気にしたことがなかった。
好奇心。それが、自分がぼんやりと思い描いていた「才能」の正体だった。
誰かに褒められたいとか、すごいと思われたいとか、評価の基準が人にあるのではなくて、自分の中にある感じが私とは違っていた。
何よりも、ちょうど芯だけになったトイレットペーパーが目の前にあったところが“持っている”。なんてことない生活の中で、これはどうなんだろうと自分の中で疑問を持ち、考え、動く。
誰も掴めない速さで駆け抜けて突破してしまうその力は鮮烈で、嫉妬なんかブチブチに引き裂いていった。私はそっちに行けない。そう、自覚するには十分だった。
今、私は会社員として社会で生活している。
朝起きて顔を洗い、コーヒーを飲んで出社し、一日に3回は上司に怒られ、30回は「教えてください」とお願いする。家に帰れば布団に直行。クレンジングも歯磨きもできないまま、朝を迎えることも結構ある。
子どもの頃に想像していた大人より、ずっとかっこ悪いし、大学生の頃に思い描いていた仕事より、ずっと泥臭い。でも、今が一番生きやすい。
それは多分、私は、私が「天才」になれないことを知っているからなんの躊躇いもなく努力できるようになったからだと思う。
ポジティブな音がする「変わったやつ」にはなれないと知っている。だから好きなことを一番大切にしようと思うようになった。褒められることは今も大好きだけど、それが「基準」になることはもうない。
人に迷惑をかけない程度に、自己中に生きる。
天才じゃない自分が手に入れたこの力は、私に文章を書く楽しさを教えてくれた。
だからね、少女だった私に伝えたい。
才能がなくても、天才じゃなくても、私には好きなもので囲まれた素敵な世界があって、人生結構楽しいよって。
「能ある鷹は爪を隠す」の鷹って、もしかして女の子なのかな

「能ある鷹は爪を隠す」ってことわざがあるけど、あれに出てくる鷹ってもしかして
女の子だったりするのかなと最近思う。
社会人になって、この人すごいな、かっこいいなと尊敬する人、特に女性は、私にいつもこう言う。「バカなふりをしなさい」って。
私の職場は男性の方が多くて、業界全体を見てもその比率はあまり変わらない。
エレベーターから降りてフロアを見渡せば、いつも紺色をしている。
普通、笑顔の人間を見たら少しは空気が緩むと思うのだが、それが全く通じない。
ふざけているように見えるらしく、強く当たられるか、下に見られることが多い。
希望した部署じゃない。それはそう。
でも今の私は本当に無力で、何もできないから毎日新しく知ることに「はい!はい!」と言って、メモをとり、帰りの電車で整理することで精一杯だ。
「辞めてやる」と「できるようになりたい」を行き来しながら一週間が過ぎていく。
目の前にある壁を懸命によじ登る毎日の中で、ある先輩に言われた。
「一年目で、ここまで恥ずかしがらずにやり切れるのはすごい。なかなかできないから。他の人から、ヘラヘラしてるとか言われちゃうかもしれないけど、そう言うのは気にしなくていい。」
「バカにされても、一年たったら周りの人も、あなたのことが分かってきて、バカにできなくなる。それまで、頑張るんだよ。」
何の抑揚もなく、淡々と私のことを褒めるその先輩は、
社内でも「仕事ができる」で有名な人で、容姿の美しさや、サバサバとした性格から
誰からも一目置かれている人だった。
そんな人に正面から褒められて、私はもう嬉しいを通り越して安心した。
よかった。それなりに真面目にやってきてよかった。今までやってきたことは決して間違いじゃない。それを知り、社会人になってから初めて一息ついた。
私にはまだ能がないから、バカを曝け出して生きていくしか術がない。
そう思っていたけれど、先輩は曝け出せることが能だと言った。
「分からないです。教えてください」と言えるのはどうやら「強さ」らしい。
私は、私のまま戦っていいのだと思った。
冒険は赤色

餃子の王将で、はじめて自分で選んだ料理が「豚辛ラーメン」だった。
それまでは「これがいいんじゃない?」と母に言われた天津飯か、残しても必ず父が食べ切ってくれるチャーハンを頼んでいた。
あまりお腹が空いていない時は、親が頼んだ料理を少し分けてもらい、「みんな」のために注文した餃子や唐揚げをつまむ。
そういう中途半端な料理の食べ方をしていて、自分の居場所がいまいち定まらないテーブルが普通だった。
当時の私にとって、一人前を頼むことは大きな決断で「絶対に一人で食べ切る!」という責任を背負った者にしか許されない行為だと思っていた。
自分の体の中にどれくらいご飯が入るのかを分かっていない状態で「これ!!」と指をさすのは、親にもお店の人にも悪い気がしてなかなかできなかった。
油のせいなのか、外食というイベントのせいなのか、原因は分からないけれど、王将のメニューはいつも目の前で輝いていて、それはそれは眩しかった。
特に、「豚辛ラーメン」を見つけた時は、すぅーっと吸い寄せられるように見入ったのを覚えている。あれはある意味、一目惚れだったのかもしれない。
「これにする!!」と言ったとき、母がメガネをクイっと上に押し上げながら、
「これ、ちょっと辛いよ」と言った。
多分、私を心配しての一言だったのだと思う。
そりゃそうだ。だって書いてんだもん。「辛い」って文字が入ってるもん。そう反抗しつつも、そっか、ちょっと辛いのかぁ・・・と落ち込んだ。
「コレ、チョット、カライヨ」
「コレ、チョット、カライヨ」
「コレ、チョット、カライヨ」
母が、サラッと言った言葉が、頭の中でぐわんぐわんとこだました。
それは、一本の線となり、中華料理屋の皿によく描かれているドラゴンみたいに、グネグネと動き回って嫌な緊張感を煽ってくる。
「やばい、やばい。私、ちゃんと食べ切れるのかな」
「でも、もう頼んじゃったし、多分、もう来ちゃうし」
「今更、やっぱ無理とか言えない」
焦って、ネガティブな気持ちが止まらなくなる。楽しく食事をするために来たはずなのに、どうしてこんな、注射を打つ前みたいな気持ちにならなきゃいけないんだろう。
なんか嫌だなと思っているうちに、ついにその時はきた。
グラグラと煮詰められた真っ赤な汁、その上に細く切られた、たっぷりのキャベツと、熱々の油にさっとくぐらせた卵、プリッとそりかえった豚肉がのっている。
ラーメン皿から立ち上る湯気は、匂いを嗅いだだけで辛い。
「ダメだ。私、負けた…」
「やっぱり、お母さんの言う通りだった」
でも、もう来ちゃったから仕方がない。
まだ十分に扱えきれない大人用の箸を握りしめ、スープの中に突き刺す。
柔らかいみどり色をしたキャベツの山が崩れ、黄味がかったちぢれ麺が出てくる。
さっきまで、顔に浴びていた湯気よりももう一段辛い熱風が飛び出してきた。
そんな空気ごと一気にすする。
「熱い、熱い。あっ。ちょっと辛い」
「うん? かなり辛い。でも・・・うまい!!」
その後からはもう夢中で食べた。「熱い」と「辛い」と「うまい」と「水欲しい」を繰り返しながら、キャベツの山を切り崩し、麺を底から掬い上げ、豚肉の甘さに唸りながら食べた。
最後、レンゲを使って汁の中にまだ眠っている卵や麺を捜索し、何も当たらないことを確認した後、ソファに深く座り直した。
さっきまで、私のお腹を緊張で締め殺そうとした皿には真っ赤な汁がポツンと残っているだけだった。
それを見た時、私は感動した。全部食べたんだ私。一人前食べたのだ、と。
今、私はあの頃よりもずっと箸を上手に使える大人になった。
残業終わりに久しぶりに王将へ行き、「豚辛ラーメン」を注文する。
出てきたのは自分の記憶よりも普通の見た目をした、ただ美味しそうなラーメンだった。あの頃、私を緊張させたものはなんだったのだろうと思いつつ、カウンターで麺をすすった。
その日の昼、同期とある話で盛り上がった。その子は、コンビニ別に買うものを固定化していて、お昼に何を食べるのか迷わないと言うのだ。
どうしてそんなことをするのか聞くと「絶対に失敗したくないから」だそうで、それを聞いて私は少し、うーんと考え込んでしまった。
1時間という限られた時間を有意義に使えているし、何より絶対美味しいし、良いことしかないのは頭ではわかっているのだけど、でも、なんかそれでいいのかなと思ってしまった。
同じものをずっと食べてしまう。ハマる。そういう感覚は知っている。でも、セブンではこのパン、ローソンではこのおにぎり、ファミマだとこのホットスナックみたいに固定化して、それをぐるぐる回すのって、なんか食事というより作業みたいだ。
私は人間で、食べることから逃れられない。だから、食事をするその一瞬一瞬にワクワクしていたい。
新作も、定番も、限定も好きだけど、一番の基準はそのとき自分が何を食べたいかであって、「失敗」とかそういうのは考えていなかった。
でも、思い返してみると、確かに私にもそういう時期があった。
チャーハンと天津飯で固定化して、いまいちテーブルが面白くない時があった。
もし、子どもの頃「豚辛ラーメン」を頼んでいなかったら、多分、私もあの子みたいになっていたのだと思う。
熱くて、辛い、真っ赤なスープに怯え、勝ち、美味しい、とたまたま思えたから、今、こういう考え方をするのだろう。
一人前を食べ切るって冒険で、その象徴が赤色で、あの時、私は感動したから、今も食事に対してワクワクできている。それを、大人になって気づいた。
管理職 ムキムキ なぜ?

入社してからの疑問なのだが、管理職ってどうしてムキムキなんだろう。ムキムキにならないと管理職になれないのだろうか。それとも、管理職になったらムキムキになるのだろうか。あんなに毎日忙しそうなのに、彼らはいつどこで体を鍛えているのだろう。不思議、というか一周回って怖い。あんなムキムキなのに、大人しくスーツに身を包んでいるという事象がホラーすぎる。
そもそもあの筋肉って何に使われるのだろう。
週末にちょこっと接待ゴルフをするため?
ライバル社との草野球でホームランを打つため?
それとも、受付のお姉さんに「わ〜。今日も逞しいわ!」って
心の中で思ってもらうため?
延長コードを持つにしてはタンパク質過多だし、仕事の場面だけ切り取れば私の方が重いものを持っている。目的がいまいち見えてこないムキムキは、ムキムキ育って日を追うごとに厚みを増す一方。その陰で私の疑問もすくすくと育っていく。
男性、女性問わず体の美しさや健康の話は人気だと思うのだが、男の人はなんというか「筋肉」という界隈の中で群れやすい気がする。どこのジムが安いとか、今どこの部位を鍛えているとか、引き出しに何種類プロテインが入っているかとか。二、三人集まればそんな会話をしている。親密度が増すと、廊下や社食ですれ違った時、互いに筋肉を軽く触り合い「おっ!鍛えてるな!」と声を掛け合う。それを見て変な文化だなと思う。そんなに筋肉が好きならジムで話せよ。てか、会社の中にあるだろ。そこで交流しろよ。そう、心の中で悪態をついてしまう。
でも、こうして私が卑屈になってしまうのは、多分、体を動かすことがそんなに好きじゃないから。汗は軽く流れてなんかくれないし、吐きそうになりながら走ってもタイムは10秒を切ることはない。そもそも、運動に適切な服が自分のクローゼットにはない。だから、生活の中に“運動”がある人が眩しい。私が意を決して、心を準備している間に、彼らは難なくスタートを切って走っていく。そして、一周して私の元に戻ってくる。その頃にはもう筋肉がムキムキついていて、声には自信とハリがみなぎっている。
筋肉は一日頑張ってもつかない。毎日コツコツ、自分の体と心に向き合う時間がないと育たない。小さなことを少しずつ、着実にこなしていく。その姿勢を崩さずに生活の中に取り入れる。負荷を習慣として受け入れる力が、仕事にも影響しているのだろうなと思う。なかなか見ることができない人の陰の努力を、ある種、筋肉は可視化しているのかもしれない。
最近そんなことを考えたんだと同期に言ったら、こう返された。
「じゃあ梨さんは筋肉がある男が好きってこと? 」
違うんだよな。そーいうじゃないんだよ。そういう話をしてるんじゃない、こっちは。
水筒って洗うの面倒くさい

水筒ってどうしてあんなに洗うのが面倒くさいんだろう。
時間がかかる訳でもないし、汚れだってすぐに取れるし、色だって可愛いのに何であんなに洗う気力を削ぎ落としにくるのだろう。もう、本当に不思議でならない。
水筒問題に直面するのは朝が多い。それもすっごく余裕がない時の朝。
あと10分で家を出なきゃいけないのに、まだブラウスにアイロンをかけられていないとか、夜ごはん分のお米をとげていないとか、洗濯機の中に靴下が片っぽだけ置いてきぼりになっているとか・・・。とにかくそういう「今、ここで!!」みたいなイレギュラーが続く時、ラスボスとして登場する。
いつもの定位置に手を伸ばし水筒を探る。あれ、昨日ってこんな奥に置いたっけ?と思いながら少し背伸びをして棚の中を覗き込む。すると目の前には何もない空間があって、嫌な予感がゾゾゾっと頭の後ろを撫でる。そして脳内会議が始まるのだ。
「確か、昨日は同期と飲みに行って。それから手洗いうがいをして、メイクも落として、歯磨きをして、そこから・・・何したっけ。あれ、記憶がないぞ。ああ、そっか寝落ちしたんだ。そうそう、だから朝から焦って風呂に入ったんだよね。うん。ということは、水筒は、まだ鞄の中だ・・・。洗えてなーい!!」
急いでバッグの中を確認すると、そこには横たわっただらしない水筒がいる。
「あっ、今気づいた? 俺、まだ洗ってないから〜」みたいなテンションでこちらを見つめてくる。憎らしいので、ボタンを押していじめてみると、ベッタリと口紅がついた白い飲み口が現れてまた疲れが溜まる。もういいや。洗うの面倒くさい。今日はペットボトルさんに頼ろう。そう思って家を出る。こうして私のラスボスに勝てない日々が続いてゆく。
お金を払うのも、水筒を洗うのも全部自分だから別に何の罪悪感も感じなくていい。だけど、ペットボトルを買った日は何だか少し寂しい。水筒で飲む時に感じる「豊かさ」みたいなのがなくて物足りない。以前この感覚をある人に話したことがあるのだが「いまいちよく分からない」という顔をされた。水筒によってもたらされるあの幸福感をなんと表現したらいいのだろう。節約できているとか、冷たい水が飲めて嬉しいとかそういう“分かりやすい理由”とは別のところで何かあたたかいものが育っている感じがする。
これはまだ、仮説の段階だから何とも言えないのだけど。あの「豊かさ」は多分、水筒を洗うことがこの上なく面倒くさいと知っているから生まれてくるのだと思う。専用のスポンジを買ったり、なんか強そうな洗剤を買ったり、ハンカチと一緒に鞄から取り出す習慣をつけるようにしたり。前向きに取り組めるように色々足掻いてみるけど、続かない。そういう愚かで怠惰な自分がいると分かっているから、水筒で水を飲んだとき私の心は豊かになる。
「あぁ、ちゃんと生きれてるな」
「頑張ってるじゃん、私」
と褒めたくなるのだ。自分一人のために時間と労力をかけるのって割と難しい。大人になると尚更だ。でも、いま私はそれができている。そんな自負が「豊かさ」の正体なのだろう。でも・・・やっぱり・・水筒って洗うの面倒くさい。
アワナイヒト

どうしても合わない人っている。こっちもあっちも別に「こいつ嫌いだ」と思って接しているわけではないのに、なんか伝わらない。むしろ、他の人より丁寧に説明しているのに上手くいかない。「腹が立つ」とか「関わりたくない」とかそういう感情が生まれるくらい何か決定的にイヤなことがある・・・わけじゃないから余計に難しい。
「なぜ、なぜなんだ」という疑問が毎日わたしの中で大きく育っていく。
最近、その人と話しているとある光景が頭の中に浮かぶ。
右手と左手の指先を全部合わせて、指の腹と腹が完全に離れないようにしながら伸ばしたり縮めたりする。細かく一定のリズムでそれを繰り返していると、そのうち右手の左手の間に透明な“ナニか”が挟まっている気がしてくる。
伸ばして、縮めて、伸ばして、縮めて・・・。繰り返せば繰り返すほど透明なそいつは硬く、強くなってく。この感覚何かに似ているぞ。なんだ、なんだ。と思いながら頭の中をぐるぐるしていると、書きかけのノートの間から透明な下敷きが出てくる。「コレだー!!」と思って取り出し、伸ばしたり、縮めりしている部分に透明な下敷きを挟むイメージをする。そのまま指を屈伸運動させていると、むしろ透明な下敷きが挟まっていない方がおかしい気がしてきて、「いま、どういう状況なんだ?」と思ってしまう。
はじめは自分の意志で動かしていた両手が、いつの間にか知らない誰かの手になり変わっていて、自分の気持ちが置いてきぼりのまま動いている。
どうしよう。いつやめようか。どうやってやめようか。と考えていると、
「何してるの?」と人に肩を叩かれふと我にかえる。手元に目をやると両手は離れていて、透明な下敷きなんてないのだ。
その人と私の間にはこの透明な下敷きが挟まっているのではないかと最近思う。
こっちもあっちも言葉とか、目線とか、態度とかそういうのを全部合わせて一生懸命動いているのだけど、間にある下敷きのせいで上手く声が届かない。第三者から見れば何もないように見えるけれど、伸ばしたり、縮めたりしている私たちは違和感を感じている。明らかに人のあたたかさを欠いた硬い何かがそこにある。
多分、これから先もその人とは合わないままだろう。それは相手も然り。そこはもう諦めている。でも、たまに自分が悪いんじゃないかという考えが頭をよぎる。もっと気遣いができたら、もっと言葉を選べたら、もっと、もっと自分がこうだったら・・・。あの人とも上手くいんじゃないかと思ってしまう私がいて、そしてそれができない自分がいることに落ち込んでしまう。
そんなとき、私はわたしに伝えたい。
「大丈夫。その人と合わないの普通だよ。」
「だって、透明な下敷きが挟まっちゃってるからさ」
「仕方ないよ。悪くないよ。」
そう思えたら、ちょっと復活してコーヒーとか淹れちゃえる。そんな気がする。